雨とカプチーノ

ヨルシカ「雨とカプチーノ」歌詞の意味を徹底解釈&考察|エルマからエイミーへ「詩書きとコーヒー」アンサーソングで伝えたいこと。


今回はヨルシカ「雨とカプチーノ」歌詞の意味やMV動画を解釈&考察していきたいと思います。

大人気音楽ユニットであるヨルシカが2019年4月10日にリリースした1stフルアルバム「だから僕は音楽を辞めた」の続編として、8月28日にリリースされる2ndフルアルバム「エルマ」。

新作には前作のアルバムで主人公の青年「エイミー」から送られてきた手紙に影響を受けた「エルマ」が手がけた楽曲が収録されているのですが、そんな話題のアルバムの中に今回の新曲「雨とカプチーノ」も収録されていました。

また、2つのアルバムはそれぞれの楽曲が「エイミーからのメッセージソング」「エルマからのアンサーソング」というような形でも対応しており、今回の「雨とカプチーノ」は前作アルバムの「詩書きとコーヒー」のアンサーソングであることが明かされています。

ヨルシカの楽曲の内容やストーリー性を考察するというのも今ではファンの間でおなじみのことですが、今回の「雨とカプチーノ」の歌詞やMV動画にはエルマのどういった想いが込められているのでしょうか。詳しく解釈&考察していきましょう。


ヨルシカ「雨とカプチーノ」歌詞の意味やMV動画を解釈&考察。

ヨルシカ – 雨とカプチーノ(Official Video)

ということで早速内容に入っていきたいと思いますが、今回話題を呼んでいるのがヨルシカの新曲「雨とカプチーノ」。歌詞はこちら。

「雨とカプチーノ」ヨルシカ
作詞・作曲:n-buna

灰色に白んだ言葉は
カプチーノみたいな色してる
言い訳はいいよ 窓辺に置いてきて
数え切れないよ

灰色に白んだ心は
カプチーノみたいな色してる
言い訳はいいよ 呷ろうカプチーノ
戯けた振りして

さぁ揺蕩うように雨流れ
僕らに嵐す花に溺れ
君が褪せないような思い出を
どうか、どうか、どうか
君が溢れないように

波待つ海岸 紅夕差す日
窓に反射して
八月のヴィスビー 潮騒
待ちぼうけ 海風一つで

夏泳いだ花の白さ、宵の雨
流る夜に溺れ
誰も褪せないような花一つ
どうか、どうか、どうか
胸の内側に挿して

ずっとおかしいんだ
生き方一つ教えてほしいだけ
払えるものなんて僕にはもうないけど
何も答えられないなら言葉一つでもいいよ
わからないよ
本当にわかんないんだよ

さぁ揺蕩うように雨流れ
僕らに嵐す花に溺れ
君が褪せないように書く詩を
どうか、どうか、どうか
今も忘れないように

また一つ夏が終わって、
花一つを胸に抱いて、
流る目蓋の裏で
君が褪せないようにこの詩を
どうか、どうか君が溢れないように

主にこのような歌詞となっていましたが、今回の新曲「雨とカプチーノ」にはn-bunaさんはどういった意味合いを込めたのでしょうか。

解釈や考察を行なっていく上で、まず「エルマ」と「エイミー」の物語についておさらいしておきましょう。

ヨルシカが綴る「エルマ」と「エイミー」の物語。

ヨルシカ – だから僕は音楽を辞めた (Music Video)

まず、冒頭でも少し述べましたが今回ヨルシカがリリースする2つのフルアルバムでは、「エイミー」という青年と「エルマ」という少女の2人の物語を中心に楽曲が組み込まれています。

1stフルアルバム「だから音楽を辞めた」では、主人公である青年・エイミーが旅をしながら書き溜めた手紙や楽曲を大切なエルマに送るというストーリー性が込められており、一方の2ndフルアルバム「エルマ」ではそんなエイミーからの手紙を受けたエルマが彼の旅路を辿り、撮影した写真や旅中で綴った日記張を再現したような内容となっていました。

簡潔にまとめると表題にもある「音楽を辞める」という結末に向かっていくエイミーと、「なぜ音楽を辞めた」のかという理由や由来を紐解いていくエルマの物語、といったところでしょうか。

 

また、この2つのアルバムには作詞作曲を務めたナブナ(n-buna)さんの「人間はどう生きていってもどうせ死ぬという中で、何をしたか・何を起こしたかも含めて、その人間がどう生きたか」という、人の生き方そのものにフォーカスした思想が組み込まれているそう。

そういったことも含めて、主人公であるエイミーが自分の寿命を残り1年と決め「音楽」の中で生きることにした、そんな物語やストーリー性がアルバムには込められているとのことでした。

だからこそ「音楽を辞める」ということはエイミーが「人生を辞める」ということと同義であって、第1作目である「だから音楽を辞めた」はそんな彼の人生の最後を断片的に残したものであると解釈することができます。

 

加えて、前提知識としておさらいしておきたいのが、主人公のエイミーは以前ピアニストの夢を諦めたことで音楽を辞めているのですが、エルマの詩を読んだことによってまた音楽を始めたというところ。

ちょっとわかりにくいですが「一度は音楽を辞めた→エルマの書いた詩を読んで音楽を始めた→また音楽を辞めた(ここの理由がアルバムのキーポイント)」というような大まかな流れとなっているのでした。


ヨルシカ「だから僕は音楽を辞めた」「エルマ」のメッセージ&アンサーソング対応表と時系列。

だから僕は音楽を辞めた (Album Trailer)

そんな2人の物語を綴った「だから僕は音楽を辞めた」「エルマ」の2つのアルバムは、1つ1つの楽曲が「エイミーからエルマに宛てられた手紙=メッセージソング」「その手紙を読んだエルマの日記=アンサーソング」というようにそれぞれ対応し合った形となっています。

1つ1つの楽曲を理解していく上でどの楽曲がどの楽曲と対応しているのか、どのメッセージに対するアンサーが綴られているのかということがわかりやすいように、改めてそれぞれの対応曲をまとめて見ていきましょう。

「だから僕は音楽を辞めた」⇄「エルマ」

  • 8/31:車窓
  • 藍二乗:憂一乗
  • 八月、某、月明かり:夕凪、某、花惑い
  • 詩書きとコーヒー:雨とカプチーノ
  • 7/13:湖の街
  • 踊ろうぜ:神様のダンス
  • 六月は雨上がりの街を書く:雨晴るる
  • 五月は花緑青の窓辺から:歩く
  • 夜紛い :心に穴が空いた
  • 5/6:森の教会
  • パレード:声
  • エルマ:エイミー
  • 4/10:海底、月明かり
  • だから僕は音楽を辞めた:ノーチラス

上記のようにそれぞれ対応し合うタイトルが似通っていたり、それこそ今回の「雨とカプチーノ」と「詩書きとコーヒー」というようにわかりやすい共通点があることも伺えますね。

ただしこれらの楽曲の「順番」は実は時系列順に並んでいないということも判明しており(エイミーがエルマに手紙を読んでもらいたい順番となっている)、楽曲をこのままの流れで聴くと時系列や物語がわからなくなってしまう可能性もあります。

 

そこで、基本的に自由に楽曲を楽しむのが良いということもありますが、それぞれの対応曲に加えてエイミーが手紙を書き始めてからの時系列も順番に沿ってまとめてみました。「だから僕は音楽を辞めた」初回限定版に付いていた実際の「手紙」をもとに考察したものとなります、参考までに。

鉤括弧がついているものは「だから僕は音楽を辞めた」の楽曲タイトル名となります、添えてあるワードは歌詞などから時系列や所在・心情の分かる部分を抜粋しました。

  • 3/14:ふとエルマのことを思い出し手紙を書き始める。
  • 3/21:「藍二乗」エルマが主役のプロットをノートに書く。
  • 4/10:関町 昨夏 暮れの街頭 鈴虫の鳴く声 最低限の荷物で、人生最後の旅に出る。
  • 4/20:スウェーデン ルンド大聖堂の一席でぼうと詩を考える日課。
  • 4/24:「詩書きとコーヒー」寿命を売るなら残り2年、それだけ残してあの街へ。
  • 5/6:ルンド アルヘルゴナ教会 ストックホルムへ向かう道中でスリに遭った。
  • 5/15:「五月は花緑青の窓辺から」君と夏を2人過ごした想い出を、笑われたって黙っている。
  • 5/17:リンショーピン 涙は全て毒性の何かだ。あの頃の僕にはそれがわからなかった。
  • 5/29:ストックホルム ガムラスタンのホテル 僕の音楽への在り方は間違いだ、でもそれじゃあ不毛じゃないか。報われないじゃないか。
  • 5/31:「六月は雨上がりの街を書く」今の暮らしはiの二乗 君が引かれてる0の下=エルマのいない生活。ただ僕の書いた手紙を読んだ君のその顔が見たい。
  • 6/15:「踊ろうぜ」音楽なんかを選んだあの日の自分を馬鹿に思うね。音楽なんて辞めてやるのさ。この情動をこのまま歌にしたい。
  • 6/26:ゴットランド島 ヴィスビーのホテル 以前は僕にもプライドがあった。
  • 7/1:「夜紛い」君が後生抱えていく思い出になりたい、見るだけで痛いような風穴を開けたい。
  • 7/12:「パレード」君の書く詩をただ真似る日々。歳取れば君の顔も忘れてしまうから、君のいない今の温度を忘れないように。
  • 7/13:フォーレ島 声に心は宿り、作品の中に神は宿る。言葉の中に君がいる。
  • 8/7:「八月、某、月明かり」バイトを辞めた1年前の回想。
  • 8/8:サンタマリア大聖堂 街を一望する丘上の道 ヴィスビーから再び幼少期に過ごした街・ストックホルムへ戻る。
  • 8/25:「だから僕は音楽を辞めた」どうしても消えない記憶、もう思い出すな。どうでもいいんだ。
  • 8/31:「エルマ」このまま何処かの遠い国で眠ってしまいたい。もうさよならだって歌って。
  • 8/31:ストックホルム ガムラスタン 残り僅かなインク。結局僕には音楽しかなかった。
  • 8/31:インクが切れた。この楽曲達は僕の人生そのものだ。一度音楽を辞めた僕がまた曲を書き始めたのは、君の詩を読んだからなんだよ、エルマ。

ちなみに、気づいたかもしれませんがエイミーは最後の旅として「スウェーデン」を訪れていることがわかりますね。これはナブナさんが幼い頃ストックホルムに住んでいたことが由来しているそうで、彼の体験も盛り込んでいるためだそうです。

「エルマ」と「エイミー」の物語の個人的な解釈。

ヨルシカ – 心に穴が空いた (Music Video)

こうして時系列順に手紙を並べ楽曲そのものも順番に聴いてみると、エイミーがエルマと離れ離れになってしまった理由や、2人の間にどういったことが起きたのかも見えてきます。

あくまで個人的な解釈や考察にはなりますが、エルマとエイミーの物語はこのような流れとなっているのではないかと解釈しました。前述の時系列順にまとめた楽曲と手紙を、エイミーになったつもりで紐解いています。

まず、そもそもの前提としてエイミーとエルマが出会い共に時間を過ごしたのは、スウェーデンでの出来事だったように思える。

それはエイミーが「あの街へ」旅に出るという言葉遣いも含めて(=エルマも「あの街」を知っている)、スウェーデンしいてはストックホルムにあるガムラスタンで2人は出会った。と仮定する。

時期は夏の前、「初夏の初め近づく五月の森」に同じ時間を過ごしたエルマとエイミー。ピアノを辞めた筈なのに机を弾く癖が抜けないエイミーは、エルマの詩に出会い「音楽観」つまりは「人生観」を大きく変えられる。

(「一度音楽を辞めた僕がまた曲を書き始めたのは、君の詩を読んだからなんだよ、エルマ。」より)

しかし、それからは何度でもエルマを思い浮かべ描き続ける日々を送るエイミーだったが、そんな2人は別れを遂げることになる。ここの理由についてはまだ判明していないが「死別」ではないと信じたい。おそらくはエルマが病気を抱えたことによる別れかもしれない。

 

ここからは、エイミーがエルマに宛てた「手紙」を元に物語を考えていく。

スウェーデンから日本に移り「音楽」での挑戦の日々を送るエイミーだったが、「芸術」について考えを巡らせるとともに「現実」の壁にぶち当たる。何もかもが嫌になってバイトも辞めてしまう。

芸術は本来生活とは離れたものであるはずなのに、必ず自らの生活の中で、生活に根付いて音楽はできあがってしまう。

エイミーにとってはエルマとの生活の中で経験した目にしたもの、聞いたもの、感じたもの、五感を通じた思い出の全てが入り混じったものが「音楽」になってしまう。それは等身大ではあるかもしれないが、金にならない。所詮売れないなら全部が無駄なのかもしれない。

空虚感に明け暮れるエイミー、ガスも水道も止まり、世間もニュースも所詮他人事。

 

でも「君だけが僕の音楽なんだ」と、エイミーにとってはエルマをなくして音楽を綴ることはできない。生きることはできない。

3月、エイミーはエルマが主役のプロットをノートに書き始めた。そして最低限の荷物を持ち「人生最後の旅」に出る。自分の人生を残り1年と決め、余った寿命で思い出を漁りに「あの街」へと向かう。

僕と君の思い出が詰まった、スウェーデンのあの街へ。

 

道中、ルンド大聖堂・アルヘルゴナ教会・リンショーピンを経て、ストックホルムのガムラスタンのホテルに到着する。

これは自問自答の旅。エルマと別れた悲しみは消えることはなく、だからこそ「想い出になれ 君よ詩に成って往け」と願う。「さようなら」と別れを告げてしまうときもある。人に笑われることもある。それでも「僕らの価値は自明」だと信じたい、喉が「思い出したんだ」と叫ぶのだ。

惑い荒ぶる心、これまでに綴ってきた音楽への在り方は間違いなのかもしれないが、「それじゃあ不毛じゃないか。僕らは報われないじゃないか。」とエイミーは言う。

ただ僕の書いた手紙を読んだ君のその顔が見たい、だからエイミーはエルマを「詩」に綴ることを止めない。想い出にすることを止めなかった。

 

そこから再び街を出て、ゴットランド島・ヴィスビーやフォーレ島を巡る。

季節も君と過ごした「夏」に差し掛かってきた中で、「音楽なんかを選んだあの日の自分を馬鹿に思うね」「音楽なんて辞めてやるのさ」と投げやりな気持ちにもなる。何もかもがどうでもよくなる。どうしようもなくて踊りたくなる。

時間が経つにつれて、詩を綴っていくにつれて、綴れるだけのエルマとの記憶や思い出も徐々になくなっていってしまうのだった。

 

ふと、思い出す。

バイトを辞める前、昨夏に路上ライブをしていたときに言われた「詰まんない歌だな。」という言葉。そしてそれを聞いても「どうでもいい」とすら思えてしまった自分のがらんどうの心。夜紛いの夕暮れ。

何もかもがどうでもよくなって、他人の評価なんてどうでもよくて、バイトもしたくなくなって、それでも君だけが僕の全てで。

「君が後生抱えて生きていくような思い出になりたい」「君に1つでいいから風穴を開けたい」と、エルマにとって特別な存在でありたいと。それだけが僕の願いだった。

もう少しでいい、もうちょっとだけでいい。一人ぼっちの「パレード」を。君のいない今の温度を忘れないように、そうしてエイミーの物語は、音楽は、人生は、確実に「終わり」へと近づいていった。

 

8月。「あの街」に、幼少期に過ごしたストックホルムのガムラスタンに再び着いた。

バイトから逃げたのはちょうど1年前くらいだっただろうか、そこからの1年が僕の一生だった。八月某、月明かり。関町を自転車で飛んだあの日を思い出す。

もう、1年が経った。

でも、全てが最低だと思った。エルマを形に残そうとした自分も。身勝手な別れも。気に食わないものも。音楽も生活も狭心もプライドも。全て最低だ、傲慢だ、貪欲だ。

僕は結局、エルマがこれでもかと言うほど大切で、だからこそ自分の人生に決してなり得ないエルマの人生が羨ましくて、疎ましくて、それでいてどうしようもなくエルマが愛おしい。そしてそんな自分ですらも愛おしくて仕方がない。

もういい、考えるのも辞めだ。どうせ死ぬんだから。もういいんだ、もう何もいらないんだよ。

 

8月25日。

風が吹いた正午、夏の終わり。恋愛の進め方も将来のこともわからなかったあの頃の記憶が蘇る、自分の中にある劣等感も欺瞞も憎悪も一緒に滲み出てくる。

もう、どうでもいいんだ。考えたってわからないし、生きてるだけでも苦しいし、音楽とか儲からないし、歌詞とか適当でもいい。どうでもいいんだよ。

でも、それが間違ってるのもわかってるんだ、全部わかってる。それがエイミーにとって最後の懺悔だった。

 

8月31日。

思い出す。初夏の初め近づく、五月の森。僕と君が過ごしたあの日々。

このまま何処かの遠い国で眠ってしまいたい。もうさよならだって歌ってくれよ、エルマ。

 

もうインクが切れた。結局、僕には音楽しかなかった。だからこの楽曲達は僕の「人生」そのものなんだ。

何より一度音楽を辞めた僕がまた曲を書き始めたのは、君の詩を読んだからなんだよ、エルマ。

自分は今のところ、このように物語を読み取りました。エイミーかエルマのどちらかが死んでしまっているという解釈もありますが、それではどうも虚しすぎるので比較的リアリスティックに解釈しています。

また、ここではエイミーにとって「音楽を辞める」ということは決して悪いことではなく、エンターテイメントに迎合した音楽や偽善的な芸術表現を辞めるというポジティブなことでもあるように思えます。

そしてそれは同時にエイミー自身が純粋に音楽を楽しもうとした決意の現れであり、もちろんそういった中で気が狂ってしまうような出来事も数多くありましたが、「神の宿る」ような作品を生み出し自分が美しいと思うもの=エルマだけを描き出すという一番美しい「芸術」のあり方を追い求めた生き方なのではないでしょうか。

 

何より、人は「死に方」にこそ「生き方」が現れると個人的には思っています。

少しわかりにくいかもしれませんが「人生が終わる」とわかったその時にどうするのか、どのように終わりを迎えるのか、終わりに向けてどれだけ輝けるか。

そうして人生の終わりにこそ、その人のこれまでの人生の結晶や美しさが現れる。

そんなメッセージ性をエイミーの人生や彼の音楽に対する向き合い方で表現し、そしてエルマが彼の生き方に影響を受けて「日記」を綴っていく。というのが大まかな流れであると解釈しました。


ヨルシカ「雨とカプチーノ」は「詩書きとコーヒー」へのアンサーソング。

さて、ということで物語全体に関する解釈&考察はこの辺りにしておいて、1つ1つのストーリーを繋ぎ合わせる「楽曲」にフォーカスしていきたいと思います。

今回のヨルシカの新曲「雨とカプチーノ」は「詩書きとコーヒー」に対するアンサーソングとして制作されたと前述しましたが、改めて「詩書きとコーヒー」の歌詞をおさらいしておきましょう。

「詩書きとコーヒー」ヨルシカ
作詞・作曲:n-buna

最低限の生活で小さな部屋の六畳で
君と暮らせれば良かった それだけ考えていた
幸せの色は準透明 なら見えない方が良かった
何も出来ないのに今日が終わる

最低限の生活で小さな部屋の六畳で
天井を眺める毎日 何かを考えていた
幸せの価値は60000円家賃が引かれて4000円
ぼやけた頭で想い出を漁る

冷めた目で愛を語るようになっていた
冷めたコーヒーも相変わらずそうなんだ
嫌いだ

わかんないよ わかんないよ
わかんないよ わかんないよ
想い出になる 君が邪魔になっていく
わかんないよ わかんないよ
わかんないよ わかんないよ
上手な歩き方も
さよならの言い方も

最低限の音量で 少し大きくなった部屋で
止まったガスも思い出もシャワーの冷たさも書き殴った
寿命を売るなら残り二年
それだけ残してあの街へ
余った寿命で思い出を漁る

晴れも夜祭も関町の街灯も
雲も逃げ水も斜に構えた歌詞観も
詭弁だ

わかんないよ わかんないよ
わかんないよ わかんないよ
想い出になる 君が詩に成っていく
わかんないよ わかんないよ
わかんないよ わかんないよ
忘れられる方法も
これからの使い方も

冷めた目の中で君の詩を書いていた
僕のこの日々は君の為の人生だ

夢も儚さも君の口も目もその指先も忘れながら
ほら、そろそろ詩も終わる時間だ

やっと君の番だからさ

わかんないよ わかんないよ
わかんないよ わかんないよ
想い出になれ 君よ詩に成っていけ
わかんないよ わかんないよ
わかんないよ わかんないよ
わかんないね
人は歩けるんだとか
それが当たり前だとかわかんないさ
わかんないよ

まずこの「詩書きとコーヒー」は時系列で言うと最後の旅に出発した直後の楽曲となっていますが、「ぼやけた頭で想い出を漁る」「余った寿命で思い出を漁る」という回想を想起する歌詞があることや「止まったガスも思い出もシャワーの冷たさ」「晴れも夜祭も関町の街灯も」といった日本での生活(エイミーは関町に住んでいた)を想起する歌詞が目立ちます。

そういったことから「詩書きとコーヒー」は、エイミーがエンターテイメントと芸術の狭間で葛藤していた日本での日々の回想がメインとなっているように思えました。

「上手な歩き方=世渡り上手な人」「逃げ水=音楽で食べていくという夢が掴めないこと」といった表現、そして「斜に構えた歌詞観=一般的なアーティストたちのエンタメ寄りの音楽」という現実や常識を「詭弁だ」と否定していることからも、ガスも止まってしまった関町の小さな部屋で「何もかもわからないよ」と嘆いているエイミーの姿が頭に思い浮かびます。

「雨とカプチーノ」というタイトル。カプチーノ(cappuccio)は「蓋」を意味するとも言われている。

ヨルシカ – 雨とカプチーノ(Official Video)

そんな葛藤の中で嘆きもはや潔い諦めすら感じるような「詩書きとコーヒー」では、「やっと君の番だからさ」というエイミーからエルマに向けた言葉が印象に残ります。

この言葉や全体的な歌詞に対するアンサーソングとして「雨とカプチーノ」も制作されたのだと思いますが、今回の新曲ではそんなもがき苦しむエイミーからの手紙を受けたエルマもまた、それこそ彼のように葛藤する姿が描かれているのではないでしょうか。

「雨とカプチーノ」ヨルシカ
作詞・作曲:n-buna

灰色に白んだ言葉は
カプチーノみたいな色してる
言い訳はいいよ 窓辺に置いてきて
数え切れないよ

灰色に白んだ心は
カプチーノみたいな色してる
言い訳はいいよ 呷ろうカプチーノ
戯けた振りして

さぁ揺蕩うように雨流れ
僕らに嵐す花に溺れ
君が褪せないような思い出を
どうか、どうか、どうか
君が溢れないように

波待つ海岸 紅夕差す日
窓に反射して
八月のヴィスビー 潮騒
待ちぼうけ 海風一つで

夏泳いだ花の白さ、宵の雨
流る夜に溺れ
誰も褪せないような花一つ
どうか、どうか、どうか
胸の内側に挿して

ずっとおかしいんだ
生き方一つ教えてほしいだけ
払えるものなんて僕にはもうないけど
何も答えられないなら言葉一つでもいいよ
わからないよ
本当にわかんないんだよ

さぁ揺蕩うように雨流れ
僕らに嵐す花に溺れ
君が褪せないように書く詩を
どうか、どうか、どうか
今も忘れないように

また一つ夏が終わって、
花一つを胸に抱いて、
流る目蓋の裏で
君が褪せないようにこの詩を
どうか、どうか君が溢れないように

また、少し気になったので調べてみると「カプチーノ(cappuccio)」という言葉には、本来「蓋」を由来とする説もあることがわかりました。

その上で個人的にタイトルの意味を踏まえた上で今回の「雨とカプチーノ」について考察をしてみました、何か参考になれば幸いです。

カプチーノ(cappuccio)の意味には本来「蓋」を由来とする説もあるらしい、エスプレッソに浮かんだスチームミルクの泡を蓋に見立てて。

「詩書きとコーヒー」ではとても現実的なことが歌詞で綴られていた気がする。「家賃が引かれて4000円」「止まったガス」「シャワーの冷たさ」「関町の街頭」という描写、そして「冷めたコーヒー」はそんな現実に直面したエイミーの冷めた心を表していたようにも受け取れる。

そんな詩書きとコーヒーのアンサーソングとしてエルマが書いた「雨とカプチーノ」には、「冷めたコーヒー=エイミー」に「ミルクで蓋をする=想い出に蓋をする」という意味合いが込められてるのかも。なんて思ったりもする。

想い出に蓋をする。つまりエルマはエイミーの身に起こった出来事を、彼の綴った詩や言葉や音楽を、そして今目の前にある現実を、まだ受け入れられていないのかもしれない。

どうなんだろう。エルマはエイミーの身に起こった出来事を、「わからないよ」と言っているように掴みきれていないのだろうか。

だからエルマは、まだ想い出が褪せないように詩を綴り、そしてエイミーとの淡い思い出の中で揺蕩っていたいと、願っているのだろうか。

 

加えて。MVに出てくる時計の針は13時半頃を指していた、正午過ぎにうたた寝をすることは「白昼夢=目覚めている状態で見る非現実的な体験や現実から離れて何かを考えている状態」を彷彿とさせる。白昼夢には「願望」を空想する、なんて意味もあるらしい。

そう考えると今回の「雨とカプチーノ」は、今のエルマの願望を象徴したような楽曲のようにも聴こえてくる。淡く、「祈り」にも似た儚い願い

ここから「君だけが僕の音楽なんだ」と言えるようになるまでに、そしてそう言えるようになってからは、エルマの身に何が起こりどんな感情の起伏を見せていくのだろう。

エイミーは「やっと君の番だからさ」と言った。2人の物語はまだ、始まったばかりなのかもしれない。

このように自分は解釈しました、皆さんはどのように受け取ったでしょうか。


「雨とカプチーノ」を聴くと思い出す「ヒッチコック」の雨の匂い。

ヨルシカ – ヒッチコック (MUSIC VIDEO)

また、これはあくまで個人的なものにはなりますが、「雨」という言葉を見るとどうもヨルシカの「ヒッチコック」が頭に思い浮かびます

雨の匂いに懐かしくなるのは何でなんでしょうか。
夏が近づくと胸が騒めくのは何でなんでしょうか。
人に笑われたら涙が出るのは何でなんでしょうか。
それでもいつか報われるからと思えばいいんでしょうか。

「ヒッチコック」は2ndミニアルバム「負け犬にアンコールはいらない」に収録された一曲で、今回のエイミーとエルマの物語とは直接的な関連性はないのですが、冒頭にはこのような歌詞があります。

この歌詞から解釈するに、ヨルシカの楽曲において夏の前に降るしっとりとした「雨」は「懐かしさ」「記憶」「思い出」「後悔」「悲しみ」などを象徴するものとして描かれているのではないか、と個人的には考えました。

 

また、実際に「詩書きとコーヒー」の歌詞にもあった「詭弁」というワードがあったり、最後の部分の歌詞では「雨とカプチーノ」の歌詞にある「夏の青さ」を想起させるような表現が散りばめられていたりと、何かと「ヒッチコック」には引っかかる部分があります。

「先生、人生相談です。
この先どうなら楽ですか。
涙が人を強くするなんて全部詭弁でした。

あぁ、この先どうでもいいわけなくて、現実だけがちらついて、夏が遠くて。

これでも本当にいいんですか。
このまま生きてもいいんですか。
そんなの君にしかわからないよなんて言われますか。

ただ夏の匂いに目を瞑りたい。
いつまでも風に吹かれたい。
青空だけが見たいのは我儘ですか。

あなただけを知りたいのは我儘ですか

というようにいくつか「ヒッチコック」で綴られる言葉が「詩書きとコーヒー」「雨とカプチーノ」に重なる部分があるのです。

そういったことからも今回の「雨とカプチーノ」は、思い出・記憶・懐かしさ・後悔・悲しみなどを想起させるような、感情の起伏や葛藤を象徴したような楽曲であると解釈することもできます。

 

ただ、MVを通じて流れていた「雨」は、最後のシーンでは止んでいることもわかります。

これはエルマの夢が醒めたということと同時に、また新たな一歩を歩み出していくということを表しているようにも感じました。

夢の中でエイミーとの日々にタイムスリップし、忘れないように、君が褪せないように、君が溢れないように「想い出に大切に蓋をした」エイミー。またここから新しい物語が繰り広げられていくことを予感させる、そんな楽曲だったように思います。

まとめ

ということで今回は、ヨルシカの新曲「雨とカプチーノ」についてチェックしてきました。

少し脱線気味にもなりかけましたが、エイミーとエルマの物語は本当に沼のように奥が深く、考察をどれだけしても新しい発見・潔い裏切りがあって本当に楽しいです。

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もちろん個々人によって楽曲の解釈や考察も違ってくるものですが、そうであるからこそ他の人の生き方や価値観に沿った受け取り方に触れることができ、それは自分に新しい気づきをもたらしてくれるものでもあります。

そういったきっかけを与えてくれるヨルシカの2人には感謝しかありませんし、まだまだ奥が深い「だから僕は音楽を辞めた」「エルマ」で綴られる世界にどんどん入り込んでいきたいと思います。

それでは拙い文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございました、記事が少しでもお役に立てたならSNS等でも気軽にシェアしていただければ幸いです。


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