ノーチラス ヨルシカ

ヨルシカ「ノーチラス」歌詞の意味を考察&解釈|海底二万里に登場するノーチラス号がモチーフとなっているのだろうか。


今回はヨルシカ「ノーチラス」歌詞の意味を解釈&考察していきたいと思います。

ヨルシカの2ndフルアルバム「エルマ」の14曲目(曲順で言うと最後)に収録されている「ノーチラス」は、どこか悲痛な叫びや願いにも似た哀愁のあるメロディーと歌詞が印象的な一曲。

そもそも今回の「エルマ」と1stフルアルバム「だから僕は音楽を辞めた」は物語がつながっており、前作では青年エイミーが旅をして残した手紙が楽曲に、そして今作では彼の手紙を読んだ少女エルマが綴った日記が楽曲として制作・収録されています。

そのために物語性やストーリーについて理解を深めたい場合には今一度前作のアルバムの楽曲も聴いてみると良いでしょう、その上で今回は「ノーチラス」に込められた意味の解釈や考察を行なっていきたいと思います。

ヨルシカ「ノーチラス」歌詞の意味を考察&解釈

ヨルシカ – エルマ (Album Trailer)

ということで早速内容に入っていきたいと思いますが、今回取り上げるのがこちらのヨルシカの新曲「ノーチラス」

現状上記のアルバムトレイラーから楽曲の一部を聴くことができますが、歌詞については以下のようなところとなっていました。

「ノーチラス」ヨルシカ
作詞・作曲:n-buna

時計が鳴ったからやっと目を覚ました
昨日の風邪がちょっと嘘みたいだ
出かけようにも、あぁ、予報が雨模様だ
どうせ出ないのは夜が明けないから

喉が渇くとか、心が痛いとか、
人間の全部が邪魔してるんだよ

さよならの速さで顔を上げて
いつかやっと夜が明けたら

もう目を覚まして。見て。
寝ぼけまなこの君を
何度だって描いているから

傘を出してやっと
外に出てみようと決めたはいいけど、
靴を捨てたんだっけ
裸足のままなんて 度胸もある訳がないや
どうでもいいかな 何がしたいんだろう

夕飯はどうしよう 晴れたら外に出よう
人間なんてさ見たくもないけど

このままの速さで今日を泳いで
君にやっと手が触れたら

もう目を覚まして。見て。
寝ぼけまなこの君を
忘れたって覚えているから

丘の前には君が居て随分久しいねって、
笑いながら顔を寄せて
さぁ、二人で行こうって言うんだ

ラップランドの納屋の下
ガムラスタンの古通り
夏草が邪魔をする

このままの速さで今日を泳いで
君にやっと手が触れたら

もう目を覚まして。見て。
君を忘れた僕を

さよならの速さで顔を上げて
いつかやっと夜が明けたら

もう目を覚まして。見て。
寝ぼけまなこの君を
何度だって描いているから

前作「だから僕は音楽を辞めた」では一度は音楽の道を諦めた青年エイミーがエルマと出会い、そして彼女の影響を受け音楽を始め、しかしながらまた音楽を辞めることになった理由について主に描かれていました。

そしてそんなエイミーの行動や言葉、そしてエルマに向けて綴られた手紙(音楽)を受けて、今度はエルマ自身が日記を綴っていくというのが今回のアルバム「エルマ」のコンセプトとなっています。

その中で「ノーチラス」はアルバムとしては一番最後の14曲目に収録されていたのですが、そもそもこの楽曲にはどういった意味合いが込められているのでしょうか。まずはタイトルから見ていきましょう。

「ノーチラス」というタイトルに込められた意味

ノーチラス 意味

まず、そもそもの「ノーチラス」というタイトルについて考察していきたいと思いますが、ノーチラスとは元よりラテン語で「オウム貝」という意味合いがあります。

また、オウム貝は空を誠一に立てた際に黒い部分がオウムの嘴に似ていることから名付けられたのですが、その一方でノーチラス(Nautilus)はギリシャ語では次のような意味合いも持っていました

  • 水夫
  • 船舶

ちなむとディズニーシーのアトラクション「海底二万マイル」のモデルともなったSF小説「海底二万里」に登場する潜水艦、「ノーチラス号」にもこのギリシャ語の意味合いは活用されています。

 

こういったことから今回の楽曲とどんな繋がりがあるのかというと、個人的にはノーチラスは「エルマがまだエイミーとの思い出の中を彷徨っている」というようなことを表しているのではないかと感じました。

様々な解釈がありますがエイミーは音楽を辞めた上で湖へと身投げし、自ら命を絶ったと言われています。

また、他の楽曲の歌詞などでも「海底」「深海」はエイミーを象徴するようなものとして描かれていることが多いとも言われています。

 

その上でノーチラスには潜水艦や水夫のような意味合いがあると前述しましたが、そうしてエイミーを象徴する深海の中をまるで潜水艦のように探り探りに進んでいく、つまりはそうしてエルマがエイミーとの思い出の中を彷徨っているような姿が思い浮かんできたわけです。

実際に歌詞の中にもなかなか外に出られないエルマの様子や「寝ぼけまなこの君を何度だって描いているから」という箇所にも象徴されているように、エルマはエイミーとの思い出を忘れられずにいる・その一方で忘れかけてもいるという狭間で揺らめいているようにも感じました。

「言って。」を彷彿とさせる「目を覚まして。見て。」

もう目を覚まして。見て。
寝ぼけまなこの君を
何度だって描いているから

もう目を覚まして。見て。
寝ぼけまなこの君を
忘れたって覚えているから

もう目を覚まして。見て。
君を忘れた僕を

もう目を覚まして。見て。
寝ぼけまなこの君を
何度だって描いているから

また、何度も繰り返される上記の歌詞「もう目を覚まして。見て。」という部分は特に、ヨルシカの過去の楽曲「言って。」を彷彿とさせるものがあります。

「言って。」は元より「雲と幽霊」のアンサーソングとして制作されたのですが、今はもうこの世にいない大切な人に対して、少女が何度も「言って。」と繰り返す。

でもその声は決して届くことはない上に永遠に何も「言ってもらえない。」というとても悲しい物語が描かれていました。

ヨルシカ – 言って。(Music Video)
ヨルシカ – 雲と幽霊 (MUSIC VIDEO)

ナブナさんは今回の「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」の2つのアルバムを制作する上で過去の楽曲との直接的なリンクはないというように話していましたが、それでもこの「別れた男女」「少女から少年へ向けられた”言って”・”見て”という想い」というような共通点が見られることは確か。

実際に今回の「ノーチラス」の歌詞にも「言って。」が収録されていたアルバム名である「夏草が邪魔をする」という言葉が引用されており、完全なつながりこそはないものの、何かしらの影響を受けていたりオマージュされている部分がどこかにあるのではないかと解釈しました。

 

そう考えてみると今回の「ノーチラス」で描かれている「目を覚まして。見て。」というエルマの言葉は、願いは、祈りは、エイミーに届くことはないのでしょうか

そしてエイミーはもう二度と目を覚まさず、そして「寝ぼけまなこ」ではなくしっかりとした表情で顔を合わせることもないのでしょうか。考えるだけでつらくなりますが物語の結末が依然として気になるところです。

「雨晴るる」で雨模様は無くなるのかもしれない

ヨルシカ – エルマ (Album Trailer)

時計が鳴ったからやっと目を覚ました
昨日の風邪がちょっと嘘みたいだ
出かけようにも、あぁ、予報が雨模様だ
どうせ出ないのは夜が明けないから

喉が渇くとか、心が痛いとか、人間の全部が邪魔してるんだよ

さよならの速さで顔を上げて
いつかやっと夜が明けたら

もう目を覚まして。見て。
寝ぼけまなこの君を何度だって描いているから

傘を出してやっと外に出てみようと決めたはいいけど、
靴を捨てたんだっけ
裸足のままなんて 度胸もある訳がないや
どうでもいいかな 何がしたいんだろう

夕飯はどうしよう 晴れたら外に出よう
人間なんてさ見たくもないけど

このままの速さで今日を泳いで
君にやっと手が触れたら

そして、今回の「ノーチラス」では上記のように「家の外に出ない」「出かけない」というようなシーンが印象的に描かれています。

このことは「家の中にずっとこもっていたい」というエルマの塞ぎ込んだ感情を表しているのだと思いますし、それは同時に「エイミーのことを引きずっている」というようにも見えるのではないでしょうか。

 

実際、「予報が雨模様=雨が降っているとは言っていない」「人間の全部が邪魔してるんだよ」「裸足のままなんて 度胸もある訳がないや」「晴れたら外に出よう」というような表現は、どこかエルマのその場しのぎの「言い訳」のようにも感じます。

これはどこかエルマが「家にこもる理由」をわざとらしく探しているようにも見えますし、それだけまだ外に出るほどの気力も、元気も、活力もない、少し諦めたような気持ちを表しているように捉えることもできるかもしれません。

 

また、同じく「エルマ」のアルバムに収録されている楽曲に「雨晴るる」というものがあるのですが、この楽曲は「ノーチラス」とのつながりを少し感じる部分もあります。

やっと雨が上がったんだ
この街をきっと君が描いたんだ
心臓の音が澄んでいた
あの日からずっと君が待っている
何も言わない僕が笑っている、誤魔化すように

実際に「雨晴るる」の歌詞にはこのように実際に雨が降り、そしてやっと上がった・晴れたことを表す描写があるのですが、ここで1つ有耶無耶としていたエルマの気持ちも転換点を迎えるのかもしれません。

そういう意味ではやはり今回の「ノーチラス」ではまだエルマは外に出て新しい道へと踏み出す段階ではなく、まだ踏ん切りをつけることができていない、悲しみのような虚しさのような気持ちが描かれているのだと思いました。

そしてエルマが「寝ぼけまなこの君を何度だって描いている」ところから、描き手が変わりエイミーが「この街をきっと君が描いたんだ」となるところまで。エルマにはどんな心境・環境の変化が起こっていくのか、まだまだ考察のしがいがありそうです。

まとめ

ということで今回は、ヨルシカ「ノーチラス」の歌詞の意味について解釈や考察を行ってきました。

ここまで考察を重ねてきてふと思ったのですが、ノーチラスには「オウム貝」という意味合いがあったことから今回の楽曲はエルマが「殻にこもっている」ような姿を象徴しているのかもしれません。

それこそ家の外になかなか出られないように。そして思い出の中を彷徨い、思い出の中のエイミーを何度も何度も描いてしまうように。

ヨルシカ – エルマ (Album Trailer)

そんなエルマの「目を覚まして。見て。」という祈りにも似た願いには胸を打たれるものがあります。その願いが果たしてエイミーに届くのか届かないのかはわかりませんが、わからないからこそなおさら儚く悲しく思える。

エイミーとエルマ、2人の物語はどんな結末を迎えるのか。まだまだ読み取りきれない深海のような奥深さがあるので、引き続き楽しく考察を行っていきたいと思います。

追記:まだエルマの日記(楽曲)の時系列が読み取れていないので定かではありませんが、今回の考察は「ノーチラスが雨晴るる以前に書かれたもの」だった場合のものです。

仮に「ノーチラスが雨晴るる以後に書かれたもの」つまり物語の後半やエピローグ等に位置する楽曲であるとするならば、もう少し解釈の仕方も変わってくるのかもしれません

それこそ「靴を捨てたんだっけ」「さぁ、二人で行こうって言うんだ」「君にやっと手が触れたら」といった表現は、どこかエルマもエイミーの元へ向かう=天国へ旅立つというように捉えることもできます。

「寝ぼけまなこの君を忘れたって覚えている」そんなエルマはもう、全てを受け入れ、手放し、許す準備ができているのかもしれません。考察は続く…

雨とカプチーノ
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